行基の供養堂か 平城京跡西側から回廊に囲まれた円形遺構
奈良市の平城京跡西側の菅原(すがはら)遺跡から回廊や塀に囲まれた円形掘っ立て柱の建物跡の遺構が見つかり、奈良県と元興寺文化財研究所(同市)が20日、発表した。
円形の遺構は奈良時代には前例がなく、多宝塔と推定される。
東大寺(同市)の大仏造立に尽くした高僧、行基(ぎょうき)の死亡直後に設けられた供養堂だった可能性がある。
(以下略、続きはソースでご確認下さい)
産経新聞 5/20(木) 17:31
https://news.yahoo.co.jp/articles/799a9c33b42768c1619de2e1c900da650d685956
引用元: ・【歴史】行基の供養堂か 平城京跡西側から回廊に囲まれた円形遺構 [すらいむ★]
行基は半分新興宗教じみたもんだったが
土木技術などを持っていたからそれで土木工事も行ったと
それで朝廷が接近して、奈良時代なんて朝廷は仏像作っただけじゃんって言われがちだが
行基を取り込んで朝廷の庇護支援下に置くことで
国内のインフラ開発を丸投げしてたって事になるか
行基もいろんなところで業績残してるね
行基も空海も各地で活躍した無名の僧侶がいつも間にか「きっと、あの高名な行基(空海)に違いない」ってなったんだろうね。もしくは、行基や空海がした功績にすれば、箔がつくみたいな。
あとは、名代で使わされた坊さんがいつの間にか行基(空海)本人扱いされたり。
>>4
空海って一応は官僚になるような勉強をしていたのに
学問を得て中級役人としての出世をするのではなく
仏教の道に入るんだよな
そして20歳から30歳までの間に何をしていたかは
「あまりよく分かっていない」
但し遣唐使に入れた理由が中国語の知識や薬師としての知識も買われたというので
要するに仏教の修行をしながら色んな知識を詰め込んだり実践したりしてたのかなあ
空海は帰国後に各地にため池を作るなど土木工事の指揮をして回るわけで
この時代くらいまで、僧侶は単なる仏教に造詣が深いだけでなく
あらゆる知識を集約した知識人だったって事だな
行基はもっと前にそのようなことをやったと
行基菩薩さん・・・(ー人ー)
>>1の画像
http://prt.iza.ne.jp/kiji/life/images/210520/lif21052017330018-p1.jpg
平城京跡西側の菅原遺跡(遺跡の北西側から撮影)
=奈良市(本社ヘリから、恵守乾撮影)
http://prt.iza.ne.jp/kiji/life/images/210520/lif21052017330018-p2.jpg
円形建物とみられる遺構が見つかった菅原遺跡
=11日、奈良県奈良市(南雲都撮影)
結構大きいな
宗教自体が古代から集団形成の機構だったからな
哲学的な思想から始まった宗教から科学が分離したんだから概念としては技術者が集まりやすいから逆の事も言える訳だ
目的が審理の追求から始まったものだから
人を纏めるための機構が細分化されたものが宗教であり、現代の政治と科学はより細分化され優れたものだという事
あと審理ではなく(←部分的に合ってるかも知れんけど)真理だった
>>12
訂正
政治も宗教から発達し純粋な統制目的に絞られたもの
人を纏めるための機構は宗教から始まり、現代の政治と科学はより細分化され優れたものだという事
あと審理ではなく(←部分的に合ってるかも知れんけど)真理だった
行基さんは私度僧で官度僧から蔑まれ疎んじられていた
しかし灌漑事業の指揮など民衆救済による人望は厚く
朝廷も利用を考え大僧正に任ぜられた
多くの知識を得ただけでなく困窮する民衆を無視できず行動した偉い人
大きな僧院はまあ大学みたいなもんだった訳で
その中で僧兵とか比叡山で一時期に破戒僧が一定数いたとかを考えると
大学の体育会系とか不良学生がそのまま居付いてるようなもんかー。って事に