渡来人は四国に多かった? ゲノムが明かす日本人ルーツ
私たち日本人は、縄文人の子孫が大陸から来た渡来人と混血することで生まれた。
現代人のゲノム(全遺伝情報)を解析したところ、47都道府県で縄文人由来と渡来人由来のゲノム比率が異なることがわかった。
弥生時代に起こった混血の痕跡は今も残っているようだ。
(以下略、続きはソースでご確認下さい)
日経サイエンス 2021年6月23日 2:00
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC18CCA0Y1A610C2000000/
引用元: ・【人類学】渡来人は四国に多かった? ゲノムが明かす日本人ルーツ [すらいむ★]
リンク先を見ると大和朝廷ってのがなんなのかよくわかるな
古墳作ったのとは別民族だろ
黒潮の海流に乗ってやってきたってことだろ
20年前に否定された弥生人半島渡来論に固執してる奴らにとっては謎だろうな
何故か学者は黒潮のことを無視するよね。
結局、本ばかり読んでいるからそこから一歩も外に出られないんだよ。
確かに昔は変な思想で忖度する学者がいたけど、今は無視されてるよ
ただこの記事を書いた記者がいまだに染まってるだけだと思う
ゲノム情報を素直に見れが黒潮に乗ってが理解しやすい。
福建省やフィリピンからなら納得できるな。
朝鮮半島経由なんぞデタラメ騎馬民族説のせい。真っ平御免だね。
八咫烏は海洋民族の証
バイキングもカラスを放って陸地を探した
神話からしてサメ(豊玉姫)・カメ(塩椎神)だものな
同意。帰化が本来の呼び方
皿鉢料理で一杯ヤルぜよ...ww
新座は?
渡来人といってるだけで、どこからかが書かれていない。
朝鮮半島か、山東半島か、揚子江河口か、台湾か、はたまた欧米か?
おそらく元の論文には明記されているのだろうね。
山口、島根、鳥取は渡来系の比率が低い。
潮流の影響、土井が浜などの遺跡、出雲の伝説などと、ちょっと雰囲気が異なる。
焼き討ちされた弥生集落などもあるので、渡来系の多くは縄文系にぶっ殺されたのかもね。
そして四国や近畿など、当時の僻地で渡来系はようやく縄文系と融合できたということだな。
ただし、石川県では朝鮮半島からの影響が大きそうだが、現代の朝鮮人の祖先ではなく、当時、朝鮮の先住民を支配していた中国大陸の北方系の影響だろうね。
すでに先住勢力がしっかり基盤を築いていて
入植しづらかったのかな。
先住勢力との競合を避けつつ東を目指した結果
四国、和歌山、奈良といったところに定住していき
神武の東征と呼ばれるようになったのか。
>>17
九州は破局噴火連発の中で縄文人系が弱体化しとったんちゃうんけ?
潮流に乗って五島辺りに着いた支那大陸南岸からの渡来人が弥生系って理解なんだがね。
筑紫平野からジワジワ九州内陸~東征と浸透して行ったのか、時期違いで追われた連中が瀬戸内経由で東征したのかそこら辺は判らん。
出雲系も必ずしも半島系とは言い難いのでは? 製鉄という要素を考慮せにゃならんし。
高温加熱の技能は縄文期の日本人は未収得なんやろ? まあ狩猟漁労採集で喰えたって風土環境も凄いなと思うが。
神武は縄文系で天孫降臨の地とされる宮崎も縄文が濃い
北部九州から稲作が広がってる考古学史料と合わせて考えれば、縄文人が水田を取り入れて拡大していった
後からやってきた渡来人はその後を追っかけて水田稲作最前線へ送り込まれて近畿あたりに定住
歴史時代に入ってやって来た渡来人は都のある近畿地方に送られ、更には関東の開拓に送られた
ってなストーリーなんじゃね?
稲のDNAとかも含めて考えると弥生人が稲作を持ち込んだのは確実視されてるんだよなぁ
どういった理由から縄文人稲作起源説なんかが生まれるんだ
稲作はやろうと思えばやれたけど縄文人がそれを選択しなかったというのが現在の通説。寒冷化して獲物の獣が減ってやむなくという感じ。さらに稲作は稲のゲノム解析から日本から半島に伝わったのも判明してる。朝鮮半島の最古の遺物は縄文土器なのもそれ以前は何も出てこないので7000年前に入植した縄文人以前は半島は無人だったのも考古学で明らかになっている。帰化人とか渡来人ってのも何のこともない同じ縄文人で倭人なのだよw
というか敢えて触れなかったけど、日本史では縄文人と弥生人は分子生物学的にも明確に区別されてるんだよね
縄文人と弥生人は遺伝子的にも別って認識で俺とは共通してると解釈して良いのね
それはもうデマだろwww
遺伝子的に別ってどんな要因でそんな事が起こるんだwww
君の方がまだふんわりした論説なのに?成立段階の民族を区別出来ていないじゃないか
細かく言うと縄文人にも種類があるんだよ?弥生人は縄文人の体格が変化したものだと暴論書いてたのはどっちだよ
遺伝子的に別というウリナラファンタジーw
分子生物学のおかげで縄文人が駆逐されて弥生人になったというアホな定説が覆ったわけでw
この10年20年で古代史の定説が分子生物学によってどんだけ覆ってるか知った方がいいぞ。
いやそんな話してないんですけど
君誰?
半島からやってきたとすると
福岡・山口・島根あたりがオレンジじゃないと
説明がつかないけどそうなっていないね
とすると広東省とか福建省あたりの民が
黒潮にのってやって稲作も伝えた
ってこととつじつまが合いそうだよね
>>18
とりあえず全く見てないが
弥生と渡来を明確に区別する見方なんだろうな
鹿児とは鹿の子模様/籠の事だけど
竹は南方由来の植物
渡来人てどこだろうな
かなり古い話なら唐人駄馬の話か
あるいは有史以降なら関西から流れ着いたものか
半島系は日本で一番少ないのが四国
でも四国に多くて、九州北部から島根鳥取の山陰にかけて少ないのはどういうことだ?
渡来人は、黒潮に乗ってやってきたのか?近畿へたどり着く前に四国に到着してそこに住んだ?
四国近畿は海遊文化
四国に故郷帰りした一団が
勢力圏を築いて、その痕跡を消し去ってから
今の歴史になったって説を昔読んだわ
痕跡を消さなきゃいけない理由が何かって言うと
アレとかコレなのかなぁ…ってなるか
瀬戸内海は波低く潮流もない移動に適したバイパス。
福岡って大陸との入り口だから渡来人が拠点作りそうなもんだけどな
中国南部から黒潮に乗ってやってきた渡来人と、
紀元後になって朝鮮半島経由でやってきた渡来人と
大きく分けても2種類ある。
朝鮮半島経由でも、中国系の渡来人と百済や高麗系の渡来人とに
わかれる。
ところがマスゴミや左翼の学者は、渡来人をひとくくりにして
あたかも現在の朝鮮人に近いかのような大嘘を書いている連中がいる。
現在の朝鮮人は古代の渡来人がやってきたはるか後に、満州から
朝鮮半島に侵入してきたエベンキ土人なんだから、関係ない。
縄文人が先にいて、あとから、弥生人が入って来たとされるが、こんなことで、人種対立、差別、マウント合戦が始まる。
これが、琉球、アイヌ独立の話につながるわけで、あくまでも、学術的ならばいいけど、、、、、、うさん臭いんだよなぁ。
都合の悪い話は信じず都合のいい話ばかり信じてる人は、都合の悪い事実が世間に多くなると
それを信じないから結果として猜疑心が極めて強く、また都合のいい嘘に騙されやすい、となる。
陰謀論に染まりやすい人とも言える
ハイウエイーの沿線(沿岸)=四国なんだよ。
弥生人の話してた言葉が今の大和言葉である可能性が高いらしい
すでに朝鮮半島で日本語グループが出来上がってから南下してきた韓国語グループに押し出される形で日本列島に渡ってきたと
まぁ弥生人が仮に古代韓国人なら日本語と韓国語の関係性がこんなに遠いわけないからそうだろうなとは思う
それを可能にする航海技術がない
対馬海流は海流が絞られるから流速が速くて航海は難しい
航海が出来るのは文明があり船が必要だった大河の近くか、海洋族だった縄文人か
仁那日本府は縄文人が日本から半島に渡ってるだけで逆は不可能
>>34
その思い込みは根本的に間違ってる。
凪いだ晴天でさえあれば、対馬海峡は手漕ぎカヤックの女子供でも簡単に横断して対馬まで行ける。
韓国にそういう家族向けイベントがあるんだよ。
朝7時に釜山を出発して、夕方5時に対馬に着く。(所要10時間。)
成人男性のカヤックなら8時間で着く。
韓国語じゃなくて朝鮮語ね
語学に明るくない人の書き込みだということだけわかる
そのうち、四国から近畿にかけて移動した勢力が拡大した結果が
このゲノム情報なんじゃないの。
そりゃ、中国や朝鮮から、
対馬海流に乗れば能登半島に着くし、黒潮に乗れば四国や和歌山に着くからな。
九州は隼人や熊襲の勢力が強くて上陸地には向かなかったんだろ。
呉越同舟で日本に向かって漕ぎ出せば、上陸地が越の国(越前/越中/越後)になり、衣装は呉服になるかもな。
渡来人とか弥生人とかアホかと。
日本人のハプロタイプの種類は多いのは事実だけど長年かけてちょっとずつ混血した結果であろう。
交易や数日の宿泊くらいなら大陸の情報と引き換えに客人としてもてなしただろうが
入植となると当然ノーだっただろう。
みんな、どこかから海を渡ってきた者の子孫だ。
そもそも日本人自体が韓国人に近いからな
朝鮮人とか、日本人よりずっと後になって半島に来た連中だろw
確かに^^;一発撃沈
中国人の範囲が広過ぎる
渡来人って日本人だから。
ミナマ日本府で朝鮮南部を支配。
百済は王子を日本へ人質に送って恭順、新羅の3代目の総理は日本人、4代目の王は日本人。
朝鮮半島には日本から海を渡って、多くの日本人が済んで日本人村を作ってた。
多くの日本人権力者が朝鮮南部を支配し、故郷の日本を懐かしんで日本から桜の苗木を持ち込んで植樹した。
だから当時の日本人入植地と、現在桜の昔からの植生値は一致してる。
長年経つうちには、朝鮮生まれ育ちの日本人もたくさん誕生していただろう。
生活習慣も姓名も古代朝鮮風にした日本人もいたことだろう。
そうして暮らしてた中、シベリアの「悪魔の洞穴」から這い出したエベンキが、途中でワイ族や匪賊などと混血し、凶暴化して朝鮮半島に雪崩れ込んだ。
多くの古代朝鮮人は攻め滅ぼされ。エベンキ族に上書きされた。
朝鮮南部に居住してた日本人は戦乱を嫌い、日本に戻ってきた。
これがいわゆる渡来人。
つまり朝鮮半島で暮らしてた日本人。
ミナマ日本府や、古代日本の属国だった百済や新羅の政権中枢にいた日本人。
能力のある日本人だった。
だから日本でも指導力など発揮してたのは当然のこと。
任那日本府(みまなにほんふ)
「みまな」だよ
「みなま」じゃない
51 訂正
朝鮮半島には日本から海を渡って、多くの日本人が済んで日本人村を作ってた。
↓
朝鮮半島には日本から海を渡って、多くの日本人が住んで日本人村を作ってた。
https://pbs.twimg.com/media/EcczT9XU4AUASXx.jpg
欧米諸国に見られるものですね
僻地に追いやられたんだろうな
屯田兵だよ
違う
渡来人がインディアン
埼玉や東京・板橋には埼玉・高麗神社周辺をはじめ多くの地域で
朝鮮半島から渡ってきた人たち多数いたとか言ってたような…
渡ってきた時代が違うのか?
時代が大分後だよ
(以下引用)
三 武蔵国の帰化人
.
武蔵国に帰化人が配されたのは、『日本書紀』天武一三(六八五)年五月条に、
化来(まいき)つる百済の僧及び俗(しろきぬ)、男女并せて二十三人、皆武蔵国に安置(はべら)しむ。
とあるのがその初めである。そして帰化人を安置するために郡が建てられたが、武蔵国には高麗郡と新羅郡が存在する。
高麗郡は、『続日本紀』霊亀二(七一六)年五月条に、
駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野七国の高麗人千七百九十九人を以って、武蔵国に遷す。始めて高麗郡を置く。
とあるように、東国の七国から高麗人を集めて建郡された。この高麗郡は、現在、埼玉県入間郡に併合されているが、日高町と飯能市を含む地域に存していた。
当時の高麗郡は、『和名抄』によると上総郷と高麗郷に分かれ、建郡のさいに、上総国から移された高麗人が居住したのが上総郷で、その他の高麗人が集住し高麗郡家が所在したのが高麗郷であったと思われる。
中心には高麗神社が鎮座し、高麗姓を名のる宮司が代々世襲されて、今なお正系を保っている。
この高麗家には、「高麗氏系図」一巻が今も伝えられ、その巻頭につぎのように記されている。
(巻頭虫蝕)之に因りて、従来の貴賤相集り、屍を城外に埋める。且つ神国の例に依りて、霊廟を御殿の後山に建て、高麗明神と崇む。
郡中に凶有れば、則ち之を祈る也。云々。
高麗神社の祭神は、一族の統率者であった若光王であるが、この若光王について、『日本書紀』天智天皇五(六六六)年十月条に、
高麗、臣乙相奄〓等(おつそうあむらら)を遣して、調進(みつきたてまつ)る。
大使臣乙相奄〓・副使達相遁(だちそうどん)・二位玄武(げんむ)若光等。
とあり、さらに三八年後の大宝三(七〇三)年四月条(『続日本紀』)に、
乙未。従五位下高麗の若光に王の姓を賜う。
と記されるが、これらの人物が同一であるか定かではない。
しかし、新たに設置される武蔵国高麗郡への統導者として、官位を授けられるほど中央政府において認められていた若光が派遣されたと、考えられなくもないであろう。
高麗神社の西南に位置する高台に、若光の守護仏という聖天を本尊とする聖天院(高麗山勝楽寺)があり、同じく若光の供養塔と伝えられる五重塔がその境内に建てられている。
この寺は、聖雲(若光王の三子)が、天平勝宝三(七五一)年に、師の高句麗僧勝楽が入寂したおり開山したと言われている。
一方、新羅郡は、前項で既述の『続日本紀』天平宝字二(七五八)年八月条の、「始めて新羅郡を置く」と記されるこのときに、高麗郡と人間川とを隔てた東の地に設置された。
志木・余戸の二郷からなる小郡で『和名抄』や『延喜式』には新座(にいくら)とあり、また『和名抄』の註記に「爾比久良」とされるように、古くは「ニイクラ」と称されたらしく、さらに中古には新倉と書いたようである。
現在では、新座(にいざ)・志木・白子などの地名が使われている。
このほか、武蔵国における帰化人の居住として、播羅郡に上秦郡と下秦郡があり、賀美郡に長幡部の名が見られ、これらの郡には秦(はた)氏の存在が認められる。
この秦氏は漢人系の帰化人で、五世紀の初め、楽浪(らくろう)・帯方(おびかた)の二郡が滅亡したさいに、弓月君が百数十県の人民を率いて渡来したと伝えられる代表的帰化氏族の一つである。
彼らは養蚕や機織の技術をもって朝廷に仕えていたが、やがて一族の分派が東進し武蔵国へも移動してきたらしく、式内社の長幡部神社が鎮座することなどからも、秦氏一族の居住地としていたことがうかがわれる。
同じく漢人系の帰化人に、浅草付近に住んでいたと言われる檜前(ひのくま)氏がいる。
多分 >>76 のコピペで把握出来るんじゃね?
半島内戦&侵略で亡命してきた豪族喰わせるにゃあ未開地開墾が適当やろと。
所謂任那経由でチョロチョロ往来有る中でレコンキスタ図って成功したのが新羅/失敗したのが百済と考えたら大体合ってると私的に妄想する。
なんか板橋の徳丸に2000人程の渡来人が馬を連れて来て
原住民に馬の扱いと稲作方法を伝えたとか言ってたような…
>>68
一概に埼玉と言っても
さいたま市近辺の見沼田んぼは出雲族が開拓したらしい
大宮台地と見沼の境目にある大宮氷川神社の歴史曰く
>成務天皇(第13代天皇)の時代に出雲族をひきつれてこの地に移住し、祖神を祀って氏神として、
>当社を奉崇したという。この一帯は出雲族が開拓した地であり、武蔵国造(无邪志国造)は出雲国造と同族とされ、
>社名の「氷川」も出雲の簸川(ひかわ)に由来するという説がある。
半島由来ネームの新座・志木辺りは武蔵野台地で水捌けが良く稲作には不向きらしく畑しかない
>>69
お前の勘違いは、朝鮮半島と朝鮮人を同じだと思ってることだ。
大陸渡来系の日本人は、けっこう沢山半島経由で来た。
だが、それは朝鮮人ではないw
朝鮮半島の先住民は縄文人ですよw
5~6世紀までは日本の版図。
長宗我部の元は曽我部 別の曽我部と区別するために長宗我部にした
香宗我部親泰ってのもいるかせな 長が張からなんて嘘は止めろ
渡来人、縄文人のとらえかたが根本的におかしいからこうなるのかもな
渡来人にしたって弥生人と中国朝鮮系の帰化人はまったく別の民族
日本人の基礎になった民族はあくまでも日本語をもたらした弥生人
石鎚山のアーク伝説なども秦氏がらみだろうな。
弥生人は朝鮮半島からでなく沿海州から渡ってきたわけだから
イスラエルのラビが調べた
ユダヤの神殿後は徳島だし
四国はユダヤ系が多いかもね
淡路島はおのころ島だし
縄文時代晩期の紀元前3~4世紀に鉄器と稲作農耕を持ち込んだ渡来人は、何処から来たのか
東南アジアでは5世紀頃には製鉄が広がってたし
ヒッタイトともなると紀元前に近い時からやってるし
文化的ルート的には南方からっぽいのも結構あるし、
製鉄は別に難しい知識でもないし
仮に製鉄の起源が中国だろうと限定されないと思うよ
百済系の神様を祀ってるのが結構多かったから
やっぱそういう由来があったんだな
カヌーに乗って南米まで
逃れた話はガセ?
時代がズレてるんじゃない?
縄文人が海から世界に出て行ったのは
弥生以前だったと思うけど
個人的に北陸の訛りって韓国語のイントネーションに似てると思うわ
地元郷士は追いやられたんだろ
そのかわり血もだいぶ流れたが
アジアでもどれだけの恨み抱えた地なのかわからんから他所の悪口言えねえなw
監視社会早く崩壊すれば良いのに
なぜかどこにでも湧くレッテル貼り野郎が利用する限られたこの掲示板とは違って、分子生物学は真実を暴いてくれる
早く自分のサンプルデータ持ち寄って盛んに日本人のルーツが議論されるような板になってほしいもんだわ
ハプログループO系統の細やかな違いについては結構細分化が一番進んでいると言える領域で、
指摘される事が多い「日本人のO系統は大陸人や半島人と同じ」という説はそういった裏付けを伴う分析により否定されつつある
つまりこれは弥生人と一括りにされるO系統のルーツが単純では無い事を示す
都道府県別に遺伝子分布を見た以前のスレでも指摘されてたので抜粋
>福岡で出土する弥生土器が朝鮮半島南端部で出土することはすでに20年ほど前から問題視され、
日本の弥生人が朝鮮半島と往来していたと考えられています。
>但し弥生人の遺伝子といわれるO1b2についても日本と韓国では大きな違いがあります。
>そのうちのL682 (旧 XO-47z)を朝鮮人固有の遺伝子とこういうスレッドで主張している人がいますがそれは何かの間違いか、ウソです。
>韓国では日本とは違うO1b2のタイプの L682 (旧 XO-47z)の種類は35%もありますが
>これは韓国発祥ではなく、水稲文化の担い手ともあまり関係がないと言われています
>つまり、韓国には本格的な水稲耕作をする弥生文化の担い手は殆どいなかったと考えられます。
>そしてそ水稲文化にあまり関係ないとみられる韓国に多いO1b2 L682 (旧XO-47z)
>は日本人では僅かに8%しか見つかりません
>ですので日本と韓国ではO1b2が共通だというのもウソなのです。
>日本人に多いO系のタイプは稲作弥生系O1b2は韓国や朝鮮半島全体で少ないO1b2a1a〘CTS713 旧47z (O-47z)〙で、
>これが日本では30%近くもいます。
>日本人(大和民族、琉球民族)で高頻度に見られ、タイ人やインドネシア人など
>でもみられる稲作倭人遺伝子ともいわれています。
>つまりこの事実が物語っているように日本人は稲作弥生人なのです。
>縄文人に関しても(日本人のベースと学術的に確定している縄文人)は
>世界指折りの海人族で日本近海は隈なく活動圏としていました。
>ですから朝鮮半島の南端部にも縄文人は入植していて、釜山・加徳島の獐項遺跡の
>人骨(6,300年前:BC4,300年)が縄文と弥生人を混血させた現代日本人のようなものと判明し、
>日本から現代日本人とほぼ同じ人間が島嶼部の地域に入植していたことも分かりました。
>韓国人の共通ハプロと大まかに言われるO1b2(オーストロアジア語族)とO2(ハプロシナチベット)
>ですが、縄文D1bが韓国人に見つからないだけではなく、D1bと共に日本人の遺伝子型の根底の
>祖型であるO1b2に関しても共通性は少なく、韓国では縄文D1bが殆ど見つかりません。
>つまり日本独自ハプロタイプの縄文D1bと弥生倭人O1b2a1a〘CTS713 旧47z (O-47z)〙で
>何と70%以上を占めています。
>客観的には韓国人との共通性は多く見積もっても30%ほどしかありません。
>結論的には、日本人と韓国人は驚くほどに違うということです。
>>100では紀元前から居る弥生人について触れているものだが、秦氏やその系統について分子生物学的に知っている人が居ましたらぜひレスをお願いしたい
渡来人は呼び方に問題があるとして最近では帰化人と言い直される事が多いね
西暦700年頃に亡命帰化した技術者集団はYハプロで見ればとしてはどうなるのかが非常に興味があるんだよね
そして弥生人は徐福の集団が来る前にも既に居たのか、前後や直接的な関係の有無も気になる
日本人のルーツは実に面白い話題
分子生物学で判明してるO系の大量流入は2度。2800年前と紀元後。
ちなみに朝鮮半島の先住民の縄文人とO系の交雑は3400年前とのこと。
弥生人ってのは稲作によって体格が激変した縄文人で時代区分の違い以上の意味はない。戦前と戦後の日本人の体格の変化と同じ。
年代は判るんだけど弥生人のルーツはどうも長江流域に居たハプログループOの集団だとしている所が多いんだが
朝鮮半島と縄文人って本当に関係あるの?
縄文人はD系統でしょ?弥生文化を携えてやって来た人達は稲作のルーツでもあるのは稲からも読み取れる
年代はズレるが縄文人の直接の遺伝子は核DNAで少ないのを見るとそのまま体格が変化した縄文人だとはとても思えないよw
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E3%81%AE%E6%96%B9%E8%A8%80%E3%81%AE%E3%82%A2%E3%82%AF%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%88
面白いじゃん。
>>113
少なくとも継体朝の頃には現京都盆地の西側抑えとった豪族でもあるが、実際入植は何時の頃だったんかねえ?
ご近所太秦の天皇陵がどうみても飛鳥時代以前の古墳やから秦氏のふんだらら...という解説は聞いた事有る
土佐は古来流刑地でどうたら...とか司馬遼太郎がDisってたが、出身者にのん兵衛が多いのは確かだと思う。
酒席文化は先史以来の伝統なのか後世伝承からの努力の所産なのかは知らん...が、皿鉢料理って大皿をみんなでつつくのよね?
そこで半島に勢力圏(国までには至らない)を築いた縄文人が半島の食いぱぐれや漢が弱体化して取り残された漢人技術者集団を保護して日本に送っていった
九州は当時の技術で可能な水田開発がある程度進んでおり人口増大を支える食糧増産が厳しいから
西日本にどんどん渡来人を流していった結果渡来人の遺伝的影響が強く関西の方に表れてるんじゃないの
大分県は弥生系で九州の中で異色なのは妥当
やって来たのが弥生人
同じ漢民族の生き残りはチベットにもいる
ちなみに今の中国人とは別系統
やっぱそういう結論になるよね
北でも南でもいくつかのルートが考えられるがどれも基本的に正しく、しかも同じタイプの民族が弥生時代だけでも数回に分けて来てるんだよね
しかし元は長江流域の農耕集団だった
緩やかに同化していく過程でその集団しか持ってない遺伝子が日本人に見られるのに中国人には稀有という謎
弥生人は古代中国人とも言えるんじゃないかと
これ古代以前の渡来に限定してないんじゃない?
朝鮮合併伊語の渡来も含めてるんでしょ
関西西部が多いのは当たり前
鮮人の多い福岡・川崎とかは?
川崎は関東内だと多い部類だけど関西に比べると
渡来技術と関係ありそうなものが多い
つか明治以降なんて転居しまくり混血しまくりだろ
>>1
>逆に渡来人由来のゲノム成分が最も高かったのは滋賀県だった。
百済寺とか金剛輪寺があるからなw
剣山になんかあるって噂あるよね
なんか稲作開始前後で縄文人が名前変えただけみたいなレス見てビックリしちゃっただけ
一都道府県あたり50人て少な過ぎじゃないか?
5000とか5万なら未だしも…
どうあれ縄文人の末裔が蝦夷や毛人、隼人である可能性は高いという分布になってんな
隼人の乱の流刑地
稲は元々が熱帯の植物
渡来人ではなく、弥生人=倭人=日本人です
弥生人は2500年以上前には中国大陸や朝鮮半島に前に居ました
そして、日本列島に船でやって来た考古学者に弥生人と呼ばれ、歴史学者に倭人と呼ばれる人達が
日本を作ったのです
大宝律令によって日本という国号が採用され、倭人は日本人になりました
そしてその少し後に出来た古事記に措いて、倭人から見た韓人を指した言葉が「渡来人」です
この言葉は、縄文人から見た弥生人を指した言葉ではありません
もともとは左翼の歴史学者の上田正昭が朝鮮民族主義を擁護する為に、
帰化人という言葉を死語にする為に、古事記を援用して渡来人という言葉に呼び換えさせた事が始まりです
ところが左翼の人類学者が、これに乗じて日本人=朝鮮人説を広める運動の一部として、
弥生人の事を渡来人呼び習わす学術的な工作が行われて来たのです
納得したわ
元々帰化人として縄文人と共生していた事が解っていた弥生人を、いつからか渡来人と呼称し出した流れがあると
まぁ今はハプログループでも出土品からでも真実が辿れるんで、起源と軌跡が容易に判るし真実のみ注視出来る
専門知識を付ければ虚偽が判別出来るんで、民間レベルでもそういったデータの解析が出来る知識と土台があればなぁ
しかし縄文人の文化圏の広さには驚くね
長宗我部は始皇帝の子孫を名乗ってただろ
秦氏って京都に遷都前から住んでたな
やっぱり神武東征は四国経由で決定やな
一時期邪馬台国は四国にあったんやろ
この頃の蜀は漢人(華夏人)とは別の民族が統治していたと言われる
この民族が長江文明の弥生人と同一視される説がある
朝鮮半島に存在した国だが秦からの移住者がいたことは確実視されている
元は天山山脈付近とも先程の巴蜀の人達かもしれない
この人達が日本にも移住し秦氏を名乗った可能性もある
半島南部は倭人も共生していた地域
その地域を投馬国と考えれば、魏志倭人伝の行程記録の謎は解明できる
邪馬台国時代(2~3世紀前半)
https://i.imgur.com/hbYnNtW.png
それが長江であれ巴蜀であれ天山山脈近辺からであれ
ユダヤ人説を唱えるならばメソポタミアから大陸ルートで新疆らへんを経由してきたとなるが、むしろ長江を遡上して巴蜀に住み着いた人達が秦に征服され、そこから出た有力氏族の末裔が秦氏と考えたほうが辻褄が合う(証明はできないが)
分子生物学的な見地から見て否定されたも同然では
アミシャーブは日本にも文化の類似性を指摘する声もあってか興味を引いて調査研究グループが来たとされてるけど、
未だに日本から帰還したとする一族が無いと見えるのでお察し
>>171
秦王朝自体は西域系がどうとかいう伝説も有ったよな...唯ユダヤ系信仰と殉死習慣は相性悪いな。
始皇帝が宰相になった中原出身商人の子説とかは、案外辺境の氏族に蹂躙されたが故の伝説やったりしてな。
傍系の王族なら九属誅滅されてなきゃ適当に残ってるやろし、当然私称するのも出て来るし。
まあ、山背国葛野郡太秦周辺は六世紀頃には灌漑やら養蚕やらで秦氏の財政基盤を支えた土地だったのだろうが、結局何時からどういう風に居着いたのかは謎やわな。
書簡が発生してる段階で渡来して有力豪族と化してるなら、継体王朝期に五経博士が朝鮮半島から渡って来ても鼻で嗤ったんじゃね?
背も低い
これ迄発掘された弥生遺跡の中で日本最大の遺跡は高知県の田村遺跡群。
約2000年前(弥生時代中期後半)からの約100年間につくられた約450棟の竪穴住居、約400棟の掘立柱建物を中心とする。
北部九州より古い弥生土器もある。
また縄文文化と弥生文化が混在した居徳遺跡群(土佐市)や入田(にゅうた)遺跡(四万十市)などが近くにある。
http://www.mystery-tsurugi.com/mystery_spot
これのC1a1ってやつだろ
参考:ハプログループ
https://i.imgur.com/xQ4QPNd.png
徳島は10人に1人がc1a1という
調査があるな。
秦氏がユダヤ人だなんて言ってる奴まだ居たのか
秦氏の、というか紀元後に流入してきた帰化人のYハプロはO2やO3だと言われてるんだぞ?
つまり縄文弥生とはまた違うルーツなのは言うまでもなく、また帰化人の渡来と土着は元々倭国とも交流があったからこそ出来た事
遺伝子比率的にも人口分布的にもコーカソイドや一部ネグロイドでしか構成されていないユダヤ人にモンゴロイドを含むのは無理がある
回族でさえコーカソイドの、しかもユダヤ人とも「共通」(コーカソイド系Y染色体ハプログループの中に散らばる形でユダヤ人が存在)
するYハプロが確認されている事が説を補強する材料になっているというのに
YAP遺伝子にしても元々DEから辿るんでメチャ範囲広いしユダヤ人の一部にEがあるという事に留まるのでDとも違う
イスラエルの失われた10氏族は既にアジアやオリエント世界に溶け込み過ぎて蚊程も通ってたら御の字位の話じゃないのか?
それでもイスラエルへの居住権が得られるなら良いのか?
あの戦争で地塗られた故郷に日本人が行って戦争の歴史の1ページに刻まれるのが良いって言うのか
望郷の末に聖戦を重ねて平和が手に入るならそれでも良いんだろうが
帰化人がO2中心なのは認める
が弥生人O1b2が数万年前長江→2千年前巴蜀→(秦に征服されたりなんやかんやあって)辰韓→秦氏移住の可能性も残ってると思ったのだ
主な弥生人流入ルートはその前に長江から直接来たんだろうけどな
とりあえず科学的に理解されている事を色んな視点から見て結論付けるなら、分子生物学的・言語学的根拠が全てだと思うぜ
日本人のルーツはしっかり辿れるんだからルーツを重ねたりして今更いちいちブレる必要無い
その研究成果の真偽だけ問えば良い話
目も二重、蒙古襞無いし、福耳の人が俺の周りには多い。
逆に韓国人みたいな一重でエラ貼ってる人少ないけど。。
詳しく知らないから間違ってたらすまんが遺伝情報って顔の作りにはあんまり関係ないのか?
弥生人は遼寧→朝鮮半島→日本ルートで入ってきたのが有力だそうだが
それをネット上で紹介するところがあんまりない
下らない であって
江戸時代前期
上方が江戸より文化が進んでいて
酒でも醤油でも上方から
下って来た物が高級品
関東で出来た上方下らで無い物が
下らない 粗悪品とされたから
まあ渡来人が大挙して来たときには日本の中心は機内だったわけで九州より近畿が影響濃いのは違和感ない
神功皇后、応神天皇の時代に秦氏一族の数3万人から4万人規模が当国に帰化したとの記録が残っている。
一族は徐福の血筋が含まれる。
(徐福と秦氏は他国から中国に入国)
徐福とは
『史記』巻百十八「淮南衡山列伝」によると、秦の始皇帝に「東方の三神山に長生不老の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、
3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、財宝と財産、五穀の種を持って東方の海に船出したものの三神山には到らず、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て王となり、秦には戻らなかったとの記述がある
『竹取物語』でも「東の海に蓬莱という山あるなり」と記されている
東方の三神山(蓬莱)とは
出航地については、現在の山東省から浙江省にかけて諸説あるが、紀元前219年の第1回出航は河北省秦皇島市、第2回の紀元前210年の出航では浙江省寧波市慈渓市が有力とされる。途中、現在の韓国済州特別自治道西帰浦市や朝鮮半島の西岸に立寄り、日本に辿り着いたとされる。
中国における研究
北宋の政治家・詩人である欧陽脩(10世紀)の『日本刀歌』には「其先徐福詐秦民 採藥淹留丱童老 百工五種與之居 至今器玩皆精巧(日本に行った徐福は秦を欺き、薬を採取して連れて行った若者たちとその地に長らく留まった。連れて行った者の中には各種の技術者が居たため、日本の道具は全て精巧な出来である)」という内容で日本を説明する部分が存在する。
目が細い
グンマーにも胡人がきてたらしいで
「多胡碑」
・秦の始皇帝は、現在の甘粛省(チベット族自治州がある場合)で生まれた
・始皇帝の母は邯鄲の歌妓でありチベット族である可能性が高い(父は呂不韋と荘襄王の2説あり)
・遺伝子 D系統は現在の日本人とチベット人だけが持つ
http://rainbowchildren.holy.jp/wp-content/uploads/2014/09/11329777_431976643630216_2458407041816294404_n.jpg
秦王朝はチベット人の王朝ですか?
周の王に馬の生産で功を立てた事で、秦の地に領地を貰った時から、国の名を「秦」と名乗ったようです。
それを証明する考古学の発掘で、犬丘(甘粛省礼県)に秦の祖の陵墓が発見されました。
これは四川省、青海省を拠点とする遊牧民の羌族の地で、彼らは西の蛮族=西戎と言われていた民族です。
羌族は色々な部族に分かれますがチベット族もその系列です。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1291881657
畿内の負け組が流れ着いたのが四国でしょ?
関西=欧州
四国=豪州
長宗我部家の系図
長宗我部家は、じつに二千年以上にわたり系譜を繋いできた。
秦の始皇帝の次に記されているのが孝武王
「五世或十世 世数未詳」との添え書きがあり、始皇帝と孝武王との間には五人から十人の後継者がいた
その孝武王のあとに書かれているのが功満王。「仲哀帝八年帰化」との書き付けがあり、仲哀天皇は日本武尊の第二子で神功皇后の夫であるとの事。
歴史好きのみんな、おはよう。
福井県に剣神社、という古い社があって、
そこの神官は織田信長の祖先が勤めてたんだ。
剣、というだけあって、境内からはたたら跡が発掘されてる、らしいよ。
https://i.imgur.com/xQ4QPNd.png
最近はD1は海洋ルートで来てるようになってるね
それだけ平和な土地と言うことだ